昭和48年1月25日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があって、それぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは、神が見ておるぞ。」

 殺すと言う事ではなくても、怪我をさせるというても同じ事。人のものを黙って盗る、泥棒をするという様な事でもそう。そういうのはねお上があって、それぞれにお仕置きがある訳なんです。けれどもね是は人間ではね、お仕置きと言う事には出来ない、又はならない。それでも神様が見ておるぞと仰る所をですか、今、聞いて頂きたいと思うんです。ですか、人が裁くというかね、というのではなくて、神様が見ておいでになる。神様がお裁きになる。
 私今朝から起きがけにお夢を頂いた。私が三十年ぐらい前の、お商売をしておる時の様な感じである。自分で何をしておるという事もない。それはけたたましゅう家内が、「お父ちゃん、そういう事しちゃいけません。」と言うて声だけが聞こえてきた。それで今日は目が覚めた。そしたら丁度いつもの三時十五分であった。それで今んとはどういう事であったであろうかと思うて、お礼をさせて頂いておりましたら、鯛ですね魚の鯛。鯛を逆様に見せて下さった。
 ここでは皆さんもご承知のように、鯛のお知らせはおかげとこう言う。だからおかげの反対、おかげが受けられない。だから今日はねおかげに直結するとでも申しましょうか。もう必ずおかげに直結する。おかげに繋がるという事。又はそれとは反対にです、そういう事ではね、もうおかげには繋がらないという事。と言う所を私は、その事から分からせて頂いたんです。
 私、それから思うた。ははぁ家内の声だけを、しかも、私が三十年前の、まぁいうなら、自分は、ひとかどの商売人だと思うて、商売をしておる時分の事である。そういう事をしてはいけません。と、家内の声をもって、私に呼かけておると言うか、叫びかけておるといった様な感じである。家内の事を、かみさんとか、おかみさんと言うでしょう。ははぁ、これは、神様の言葉であるなと思うたんです。神様が、そういう事をしちゃいけません、そういう事しちゃいかんぞ。という事なんです。
 それは殺すとか人のものを盗るとかと言った様な事じゃないのです。そういう事は人間の世界で裁かれるから、それで罪は償えるけれども。これだけは人間では、例えば裁く訳にはいかないと言う事と言う事は、私はその当時商売人ですから。例えば他所よりも安い品、悪い品物を他所よりも高く売ると言った様な事なんです。そういう事は警察だってそれを、どうこうと言う訳にはいかんでしょう。力量で売るのですからね。
 私共北京におる時分に、普通一本が五円でしたお酒が。けれどもそれじゃいけんと思うてから、自分の酒が自信があるという訳じゃないけれども。五円五十銭で売った。所が五円五十銭のが売れたです。五円五十銭の方が。教えとは全然反対の事、成程売れもしたですけれどもね、それは本当のおかげに絶対つながらないと言う事です。いわゆる繁盛のおかげにつながらないと言う事。
 これなんかは警察だって、それをとがめる訳にはいかないでしょう。いわゆる人間はとがめる訳にはいかんのだけれどもです、これは神様は、見ておいでになると言う事です。今日私はおかげに絶対直結するような話しを聞いて頂きたいと思うです。おかげに繋がる。ですから教祖様は、人が十銭で売るものは、八銭で売れとこう仰る事などはです。神様が見ておいでであるから、聞いておいでであるから必ず繋がる。
 神様がですよ所謂おかみさんが「そんな事しちゃいけません」と言う事は、本当のおかげには繋がらないぞ、そういう事して、儲かりよったってそれでは、巡りを積んで行くだけぞ、と言うておられる訳なんです。だから鯛を反対に見せて下さった。鯛をおかげと言うならおかげの反対という事、だからおかげには直結しないと言う事これは。それはそん時に他所よりも銭高いから、よけい儲かっておるようにある。いや却って高かつなら良かとのごと、素人は思うのですから、よけい売れると言う時もあります。
 けれども本当のおかげには絶対繋がってないです、私の過去の商売では。それがよか商売人それが、商売が上手だと言う様な考え違いをしておったと言う事。これはそん時そん時、目先目先はね、人よりも儲かりよる様にあるし、又自分が商売上手だと言った様な、自惚れがありましてね。これはけれども人間が、とがめる訳にはいけないでしょう。殺したり、泥棒したりするなら、人間が人間を裁く事が出来ます。お上が有ってちゃんとお仕置きに合うのですけれども。
 そんなら人間とても裁く事が出来ない人間は。その間にですね、その中間に所謂おかげの受けられない、もう絶対におかげには繋がらない、おかげに繋がるという、その辺の所を、教祖様は教えておられるのです。五つの願いの中の、家繁盛子孫繁盛を願わせて貰うならばです。そういう心がけを、私共は持たなければならない。次にはねこれは憎むとか、恨むとかいう事があります。四神様の御教えの中に「憎い、可愛いい、惜しい、欲しい、をとれば楽じゃ」と言う御教えがありますが。
 私は今日は憎いという事、憎い人を憎むと言うこと。又は恨むと言う事。そんなら憎んだからというて、懲役に行かんならんという事は無いでしょうが。恨んだからというて、罰金を払わんならんという事はないでしょう。これは人間はどうにも仕方がないのです。だからよかろうごとあるです。けれどもね神様がお許しにならんですこれは。だからおかげに直結しないです。
 人を憎むなら人を恨むなら、自分の心を憎む自分の心を恨むがいい。それに人を憎んで所謂、人をいじめる、人をこなすと言う事憎むからです。そんならこなしたからと言うて、罰金納めにゃん事もなからなきゃ、懲役に行く事も要らんとです。だから誰でんよかごとあるけれども、そんなら、これは、おかげには絶対直結しないという事です、おかげには繋がらないです。
 ですから、その反対にですね。憎む心がはぁ憎む段じゃなかったと、自分の心の上に頂き。恨んでおったけれども、こげな本当に恨む段じゃなかったという事になる。その心はです、もうおかげに直結する心なんです。それからね、神様に頂いておるものに不足を言う。例えば養子を貰うたとか嫁ごを貰うたとか、神様がその家ならその家に適当な、釣り合うたおかげを下さってある。
 例えば嫁後なら嫁後の事をです、いうならどげな悪かとこでんあるばってん、まぁこんくらいで辛抱して、堪えとるち言うくらいなことだったら、これは大変なご無礼です。それを例えば反対に、悪口どん言うごたるなら、これは絶対おかげにはならんです。そんなら、嫁後をいじめたからと言うて、嫁後の悪口を言うたからというて、罰金を納めんならなきゃ、別になからなければ、懲役に行かんならんという事でもない。けれども神様が下さったものとしてですね。
 もう本当に有難うございますという喜びの信心です。これはほんなら、反対の事を言うてもええ。嫁後が自分が例えば、嫁入ってきて嫁入ってきた主人を、みたらんと思うたり、家がどうも複雑であるとか、お父さんなよかばってん、婆さんが悪かとか言うて、もし、嫁後が言うならです。これではおかげの頂けるはずは絶対ないです。もう自分としては、最高のおかげを頂いておるんだと、喜ばにゃいかんです。自分の家としては、もう最高の嫁後として、喜ばにゃいかんです。
 なしや神様が下さってあるんでしょうが。お願いをして神様が下さったんでしょうが。それをちったそのまぁいうならば、こなしやらせんはね。そりばってん少ぅしは心の中に不足を持っておるという事は、神様の下さったものに不足を言いよるから、これじゃおかげに絶対直結しないです。神様の下さったものに、ケチをつけとるのですから。心の中にちっとばかり不足を持っておると言う事。
 だからね、神様が最高の例えば、嫁なら嫁を私の家には勿体な過ぎる程しの、嫁を頂いておるんだと言う所からです。お礼を申し上げる心はもう絶対、その場からおかげにつながるのですそういう頂き方は。だからこれなら皆さん出来るでしょうが。私は今日はその三つの事。嫁後をこなしたからと言うて、悪口を言うたからというて、罰金納めにゃん事も無からなければ、懲役に行かんなん事も無いけれども。けれども頂いたものにケチをつける、不足を言うならばです。
 それはもう本当に有難か、兎に角有難かちいうなら、欠点なんか見える筈はないです。神様が下さったものとして有難く思いよるなら。それに反対に嫁ごん、いうならば悪か所ばっかりが目につく。そん時にはもう自分自身が、大変に間違った時と思わにゃいかんです。神様に頂いたものに対してケチをつけとる時と思わにゃいかんです。そしてこげな事じゃおかげ頂けんと思わにゃいかんです。神様に頂いたもの。それにケチを付ける様な事があっちゃならん。
 人を憎むとか人を恨むとかそういう心は、例えば憎んでおるならば、いうならば恨んでおるならば、神様がそれこそおかみさんが、そげなこつじゃいかん、そげなこつじゃおかげ受けられん、と言いよりなさる声を聞かにゃいかんです。商売人がです、他所よりも高う売ったり、悪い品物をよか品物の様にごまかしたり、その時分には例えば随分、神様が、それこそ絶叫してから、そげなこつじゃいかんぞ、と言いよんなさったろうけれども。さぁそれが聞こえとらん。
 いや自分が商売が上手のように思うておった。人よりも高う売ってそれだけ余計儲かる事は、自分が金儲けの名人のように思うておった。けれどもそれは本当のおかげに、絶対直結しない。今日私が皆さんに言うたことは、もうおかげにそのまま直結する話です、まだ他にもありましょう。神様がはぁそんなこっじゃいかんぞ、と言いよんなさる声を聞かにゃいけん。それはおかげの受けられない。
 人を憎むそこからその人に意地悪くする。恨むだから一遍な仕返しをせにゃ、と言う仇討になって来る。そういう心はもう絶対におかげに直結しない。鯛を逆様にしとるのと同じ事。だからそれとは反対の事になるとです、それは絶対におかげを頂く心なんです。恨む心、憎む心そういうものを、私共の心から取り除かせて貰う。それはね今も申しますように憎んだからと言うて、恨んだからと言うて、又は品物を悪いとを良いように見せかけたり、安いものを他所よりも高く売ったり、それは誰もとがめはしません。
 私は今日は人間が、とがめ得ないところ、だから私共がごまかそうと思えばごまかせる訳です。けれども神が見ておると仰るように、みてお出でだから、それではそういう心の根性では、おかげにはならんという事。商売なら商売でも繁盛には絶対つながらないと言う本当な。そん時は人よりも余計儲かりよるごとある高う売るから。けれども本当の繁盛にはつながらない。だからそこんところを信心させて頂いて、改めるところにですおかげが受けられる。
 昨日は北野の上滝さんの所の宅祭でした。お祭りだけはそれこそ一生懸命で、あそこは仕える訳だけれども、本当に有難いお祭りでした。それも行きがけから、そこん所をいろいろ頂きましたがね。こういう事を頂いた。「信心によりて知る道程と、感謝と精進」と言う様な事を頂いた。これなんかはですね、信心によって知る道すがら、道程初めはおかげ信心から入って来る訳、大概の者が。それから信心とはわが心が神に向かうのだというところが、はっきり段々分かってこにゃいけん。道程。
 それがいつまっでん分からんなら、結局一生がしだごだの信心で、あの世にも持っていけにゃ、この世にも残して置けないような、信心で終わらなければならぬ。ですから今、合楽で言われておるような信心が、本当に身につくと言う所迄が、信心の道程である。だから、あとは感謝があるだけなんだ。感謝ではない本当に、そういう状態になれば、例えば、今日の様な所の御教えを頂いたら、おかげに直結するから、もう本当に神様のお働きに恐れ入ってしもうて、感謝が感激になって来る。
 その感激の心が次の精進になって来る。その感激が修行しなければおられない、お参りしなければおられないという事になって来る。いわゆる信心によって知る所の道程というのがです。どういう事かと言うと、やまなみハイウエーなんかを自動車で走りますと、山の角々、曲がり角の所に標識が出ていましょう、警笛を鳴らさなければならないという標識が。あれを頂くんです。あれはね自分の身を守ると言うだけではなくて、人の身もまた、守るための警笛なんです。
 様に信心というのは自分の身を守るとか、自分だけがおかげを頂けば良いというのじゃなくてです。人も助かる神も助かる、為に信心はするのです。と言う所がです、信心の様々な過程を通らせて頂いておるうちに分かる。だから現在の合楽の人たちは、ここまでは分かったとして、例えば今日のご理解なんです。信心とはわが心が神に向かうと言う事が、信心だと言う様な所からです。そしてどう言う事になるかと言うとです。
 そう言う様々な過程を通らせて頂いて受けるおかげが、所謂有難い感謝になる、それが感激になる。その感激が精進になる。愈々有難い勿体無いの信心ができる。そしてその有難い勿体無いの感激がです。どういう事になるかと言うと、愈々五つの願いに徹しなければならない事になって来るその感激が。よりおかげを頂かなければならない事になって来る。私は今日はここん所を頂かせてもろうて、現在の信心の所の最高の所です。もう感謝感激によって精進される。
 その精進するという事はです、勿論お参りとか修行とか言われるけれども。そのお参りやら修行やらも、何の為お参りするか修行するかと言うと、感謝感激がです。愈々形に表わさせて頂けれる、おかげ頂きたいからなんです。愈々健康の上にも、家庭円満の上にも、家繁盛子孫繁盛の上にも、その感謝感激の心を願うのである。願わなければおられんのである。それはこの感謝感激をどの様にして表そうか。
 神のお役に立ちたい、神願成就の御用にでも使うて頂きたいと言う、その事がです感激に寄らなければ出来ないと。今日はこの七十五節をですね。神様が見てござる、人間はそれを罰する事ができない。けれども神様が見てござる。そこんところをですおかげに直結する、又はおかげが頂けない事につながると言う事を聞いて頂いたんです。もうそう言う事では、本当のおかげにつながらない。感謝感激が湧いて来ると言った様なおかげになってこない。感謝感激が湧いて来る様なおかげを頂くためにはです。
 私が今日三つの事を申しました。どうぞ一つそこん所をよくよく皆さん考えてみて、もう本気で今日から改まらせて頂けれる。例えばうちの嫁ごの悪口を言わんと言った様なぐらいの事じゃないです。そげなこつじゃ出来んです。もう神様が下さったものだから、もう本当にお礼申し上げなければ嘘です。商売をさせて貰うなら、どこよりも良い品を安く売るという行き方にならなければです。
 いわゆる、本当のおかげにつながらない。憎むとか恨むとかと言った様な心は、もう微塵もサラサラ無いと言うおかげを頂かなければです。いわゆる仇討と言う様な事になって来る。昨日はベトナム戦争が終わったという、ラジオテレビで盛んに報道しておりますね。もう本当にこんなに嬉しい、有難い事はない。その事をどんなにしてお礼申し上げようか。世界真の平和を願っておる。私共は願っておる。その事に対するお礼が、どの様な御礼をもって、私共は神様にお礼を申させて頂こうか。
 皆さんお考えになっておられるでしょうか。考えて下さい、お礼申し上げにゃいかんです。なぜや日々願いよるでしょうもん。世界真の平和は。だからそういう例えば神様が、悲しまれる様な事態から、おかげを頂いた事をです。私は日頃願っておるから、お礼の心が生まれて来る。願っておるけれども、おかげを受けても、お礼の心が湧いてこないなんて、こんな可笑しい事は無い、願いが如何に本当でなかったかを言う事を分からせて貰わにゃいけませんね。
   どうぞ。